陰口

 今日、友人のAからBの陰口を聞いた。でも、AがBの陰口を言ったということは、いつか自分もこの人に陰口を言われる可能性があるということを意味している。そもそもこの人は陰口を言う人なんだとわかってしまうんだから、陰口を言われる可能性がとても高いことを示してしまう。いや、もうすでに言われているかもしれない。

 一回の陰口だけで、これだけのことがわかってしまう。

 陰口を言うということは、実はそれを言った当人の信頼を失う(=陰口を聞いている周りの人間からの信頼を失う)だけの行為で、何のメリットもない。

 

 誰もがこのことに気がついているんじゃないかと思っていたが、気がついていない人間もいるのだろうか?それとも、単に惰性で見過ごしているのだろうか?

 わからない。

緊張しいの自分のために考えた

 仕方のないことだが、職場で人とコミュニケーションを取る必要がでてきた。ちょいちょい人前で話さなければならなくなった。

 自分はどうも声が小さいらしく、今までを振り返って見ても、「もっと声をはれ」とか言われていた。それに加え、自分は緊張しいなので、声が震えてしまう。というわけで、人前で話すのは自分にとって嫌な行為だった。自分は無口だし、大きい声も出したくない。できれば、ひとりで黙っていて、音楽でも聞きながらコーヒーでも啜っていたい。けれど、そんなことも言っていられなくなった。

  完全に苦手を克服とまではいかないまでも、自分なりに少しでも改善する方法を考えた結果が、「ゆっくりと、一語一語はっきりとしゃべるということ」だった。

 わざとらしいくらいゆっくりな方が、喋りが苦手な人間にはいいのかもしれない。そして、略さないということが重要だ。「おざーす」じゃなくて、「おはようございます」とわざとらしく一語一語しゃべる。語尾まではっきり。特に人前とかで緊張している場面では、口がうまく回らないまま、早口でかつ小さい声でしゃべってしまうということが起きていた。そういうのを防止するのと、少しばかり自分を落ち着けて、ちょっとばかし周りが見えるようにもなる。劇的な効果こそないが、自分みたいなコミュ障の人にはおすすめ。

 とはいえ、苦手なものは苦手だ。人間なんてそんなものだ。少しずつ慣れていこう。

高校生のころ、逃避先は映画だった

 なぜかわからないけど、最近になって、映画を見ても心動かされることがなくなってきた。どういう心境の変化があったかわからないけど、むかしみたいに熱中することがなくなった。これは、何なんだろう。

 高校生のころは、金曜ロードショーと、日曜洋画劇場は必ず見ていた。学校に行くのが嫌だったから、その逃避先が映画だった。自分は高校のころからどんどんと成績が下がっていって、いろいろうまく行かなくなり、その鬱屈したエネルギーが、映画に向かっていった。テレビに映し出される、名前もない場所。コンクリート、金網、レンガ・・・。とにかくなんでもいい、自分の知らない世界がそこにある。自分の周囲の現実とは違う場所。それに強く憧れていた。家や学校や、自分のなじみのある風景から逃げ出し、そして忘れたかった。自分は、映画の世界に意識をもっていくことで、それをしていた。若者らしいエネルギーがすべて、そういう方向に流れていったという感じだった。

 高校の頃の僕が妙に覚えている映画があって、それは「戦場のピアニスト」だった。僕は、なぜかこの映画が好きで、DVDも買ったりした。この映画のすごいところは、主人公が闘わないところだ。ただ逃げているだけである。ただ逃げているだけなのに、この映画を観終わったあとには、何か歴史を目撃したような、疲れたような感じを覚えるのだった。主人公がラスト近く、崩れた家々が地平線まで続く荒れ果てた道路を片足を引きずりながら歩いていくシーンがある。まるで、歴史の荒廃を暗示しているようなシーンだ。そのシーンの後、映画のラストで、主人公がピアノで、オーケストラの演奏が流れる。今度は午後のひだまりのような心地よさだ。いままでの出来事が嘘だったかのような、平和で調和のある世界。

 どんなことがあろうと、歴史は流れ、過ぎ去っていく。

 

 最近の自分が無感動になったかというと、けっしてそういうわけではない、と思う。妙に音楽にこだわるようになったし、本もときどきは読む。感動もする。鳥肌だって立つ。

 ただ、映画に対して、そこまで感情移入できなくなった。映画を見て、何かを感じたり、考えたりはする。けれど、むかしのように夢中になって見ることはなくなった。もしかすると、高校の頃と比べて、自分の中で変化があったのかもしれない。高校の頃とは、状況が変わった、ということなのかもしれない。

 映画に夢中になることがなくなった。でも、それは、むかしの精神的な危機が去ったということも意味しているだろうし、他にもいろいろ知りたいことが出てきたということなのだろう。これはこれで成長した。と、自分は思いたい。