信用と見返り

 先日、自分は誰のことも信じないと豪語する人がいました。いろいろ裏切られた経験があるから、とその人は言っていました。「例えば、君はクビです、と突然言われたらどうしますか?」とその人は言うわけです。

 僕は、なぜかこの話に違和感を覚えました。何か心に引っ掛かるのです。いろいろ考えていると、ふと気がついたことがありました。この人の話は、「あなたは自分を雇ったのだから、自分を首にするのはおかしいはずだ」という前提があって初めて成り立つのではないか。さらに踏み込むと、「私はあなたを信頼したのだから、それに対する見返りがなければならない」という理屈がこの人の前提になっているのではないか。
 
 仮にこの仮説が正しいとすると、この時点で、すでにふたつのことが明確になりました。
・そもそも、まず初めに人を信頼することが前提になっている
・その信頼に対する見返りを無意識のうちに求めている
 
 あなたは、自分は人を信じないと言いましたが、それは嘘です。すでに、あなたは人を信頼しています。そうでないと、あなたの言っていることがそもそも成り立ちません。
 あなたは無意識のうちに人を信頼し、かつ無意識のうちに他人に何かを期待しています。そしてあなたは、その期待したものがなかったり、あるいは期待した以下のものであったりすると、それを裏切りと呼ぶのではないでしょうか。(これが僕の心につっかえていたものだと思います。僕には、これは傲慢のように思えました。あなたは労せず何かを得ようとしているように見えました)
 
 あなたがあの時言うべきだったのは、「私は誰のことも信じません」ではなく、「私は見返りの大小を気にしません」だったか、あるいは「見返りのない人はいりません」だったのではないでしょうか。
 
 面と向かって、「私は誰のことも信じません」と言われて、正直なところ、僕は良い気分ではありませんでした。
 一体、僕はあなたにどう見られていたのだろう。

陰口

 今日、友人のAからBの陰口を聞いた。でも、AがBの陰口を言ったということは、いつか自分もこの人に陰口を言われる可能性があるということを意味している。そもそもこの人は陰口を言う人なんだとわかってしまうんだから、陰口を言われる可能性がとても高いことを示してしまう。いや、もうすでに言われているかもしれない。

 一回の陰口だけで、これだけのことがわかってしまう。

 陰口を言うということは、実はそれを言った当人の信頼を失う(=陰口を聞いている周りの人間からの信頼を失う)だけの行為で、何のメリットもない。

 

 誰もがこのことに気がついているんじゃないかと思っていたが、気がついていない人間もいるのだろうか?それとも、単に惰性で見過ごしているのだろうか?

 わからない。

緊張しいの自分のために考えた

 仕方のないことだが、職場で人とコミュニケーションを取る必要がでてきた。ちょいちょい人前で話さなければならなくなった。

 自分はどうも声が小さいらしく、今までを振り返って見ても、「もっと声をはれ」とか言われていた。それに加え、自分は緊張しいなので、声が震えてしまう。というわけで、人前で話すのは自分にとって嫌な行為だった。自分は無口だし、大きい声も出したくない。できれば、ひとりで黙っていて、音楽でも聞きながらコーヒーでも啜っていたい。けれど、そんなことも言っていられなくなった。

  完全に苦手を克服とまではいかないまでも、自分なりに少しでも改善する方法を考えた結果が、「ゆっくりと、一語一語はっきりとしゃべるということ」だった。

 わざとらしいくらいゆっくりな方が、喋りが苦手な人間にはいいのかもしれない。そして、略さないということが重要だ。「おざーす」じゃなくて、「おはようございます」とわざとらしく一語一語しゃべる。語尾まではっきり。特に人前とかで緊張している場面では、口がうまく回らないまま、早口でかつ小さい声でしゃべってしまうということが起きていた。そういうのを防止するのと、少しばかり自分を落ち着けて、ちょっとばかし周りが見えるようにもなる。劇的な効果こそないが、自分みたいなコミュ障の人にはおすすめ。

 とはいえ、苦手なものは苦手だ。人間なんてそんなものだ。少しずつ慣れていこう。