まだ無名の風景たち

そしてその情景

イノセンス ~人間の部分は脳だけ~

 

バト―は脳以外はアンドロイドという設定らしいです(間違ってたらゴメン)。恥ずかしながら最近までこの設定を知りませんでした。これは恋愛映画でもあって、もし人間が脳だけになったらどういう恋愛をするのか、ということが描かれています。バト―と素子の関係の部分です。声優の大塚さんが、「バト―と素子は生臭い関係にならずに・・・」と言っていますし、映画の題名もイノセンスというわけで、要はプラトニックラブです。そもそもアンドロイドだから性器を持っておらず、構造的に、生殖ができないようになっています。そのような世界での恋愛を描いています。肉体の伴わない、意識だけの恋愛です。まさしく純愛で、ピュアだと言えるでしょう。ここだけ見てみると、SF的な世界にも関わらず、実に古典的なテーマではないでしょうか。

それでやっぱりこの映画はプラトンの理想とするようなイデアの世界に近づいていくような気がします。例えば、純粋な円とか三角とか、あるいは純粋な椅子の形とか、純粋な娼婦としての人形とか、そういった形相の世界です。そのような、ある特定の観念を実在させた世界です。いわばこの世界に形相しかないのではないでしょうか。伊藤計劃はこれを殻と表現していたと思います。人間の形をしたものとしての人形とかがまさにそうです。それにバト―などのアンドロイドはたぶん、形でもって外界を認識しているはずです。コンピュータの認識システムもたぶんそのような形の認識で作られていると思います。だから言葉も一種の形相として捉えられていると思います。言葉も殻です。だからやたらと引用が多かったりするのではないでしょうか。

そのようなプラトニックな世界と平行して語られるのが、セクサロイドの事件です。はっきり言って、どういう事件だか、忘れましたが、たぶん、バト―や素子たちの関係とは対比的に描かれていると思います。セクサロイドはたぶん人間が使っているから生臭さがあるわけで(この世界には人間はいないという設定ではないよね)、まあひどいことをしているわけです。押井守鈴木敏夫が対談している映像があって、そこで押井が「現代人は脳だけ、肉体がなくて、意識だけの存在になっちゃった」というようなことを言っていたはずです。確か、彼の著書『凡人として生きるということ』にも似たようなことが書いてあったような気がします。確かに、現代は意識のみの世界が膨大に膨れ上がったように思えます。映画もしかり、テレビもしかり、アニメもしかりでしょう。で、元を辿れば言葉というものもそのひとつのはずです。電車に乗るとみんな下を向いて、携帯をいじったり、ゲームをしたり、あるいはぼうっとしたり、体が置き去りになっていると、押井の著書に書いてあったと思います。で、押井は、「人間は肉体がなくなって脳だけになってしまったけど、脳だけになった人間にも何か生き方や可能性があるはずだ」という風な考えのもと、この映画を作っていったようです。そういう視点でいくと、意識だけの人間は非常にピュアでもあるんだ、というふうに捉えることもできるわけです。押井の『凡人として生きること』に、秋葉原かどこかでメイドさんが誘拐されたという事件があったらしく、それについてオタクたちが憤慨していた、ということが書かれていますが、それも意識のみのピュアさと関係があると思います。

 

映画の最後のシーンは、人間が人形を抱いている様と、バト―が犬を抱いている様が、対比的に映し出されていると思います。人間は自分の理想の投影としての人形を抱いており、一方、肉体を失ったバト―は純粋な肉体を持っているであろう犬を抱いています。どちらも自分にないものを抱いているということは共通しています。そう考えると、ちょっと皮肉ですが、バト―などのアンドロイドは実は人間に憧れているのではという解釈もできしまいます。どちらにせよ、意識は常に何かを希求し続けるのではないでしょうか。バト―と(セクサロイドに素子の意識だけが入った)素子が出会うシーンにはしびれました。ふたりは銃を突きつけています。これは何と言うか、ふたりの間に横たわっているのは死であり、この乗り越えられない死という壁があるからこそ、バト―はバト―であり、素子は素子である、ということの暗示で、バト―も素子もそのことを知っている、ということの暗示のように感じました。ふたりをふたりたらしめているのは、死というものがふたりを分けているからではないでょうか。ふたりはひとつになりたい、しかし、ひとつになるということは、自分でなくなるということで、自分でなくなるということは、素子やバト―を意識することができなくなるということでもあります。ということふたりとも了解しているからこそ、バトーはバト―であり続け、素子は素子であり続けるのではないでしょうか。ふたりは愛し合っているからこそ、存在している。素子を思い続けるからこそバト―には存在意義がある、ということではないでしょうか。

 

バト―の住んでいる世界は、私たち観客の理想や意識の中の世界の投影ですが、バトーは、私たち人間にとって美しい形相を持った人形であるにもかかわらず、それでもまだ何かを想像し、希求し続ける、という入れ子構造になっています。人間の理想の投影である人形が、さらに理想を抱き続ける、というわけです・・・。どこか、陰陽のあの模様みたいですね。

 

やっぱりこの映画はロマンス、恋愛映画なんじゃないかな、と思ったりしました。