まだ無名の風景たち

そしてその情景

羊をめぐる冒険 ~記憶、過ぎ行く風景~

 僕の相棒から連絡があった。どうやら仕事でトラブルがあったらしい。僕は黒服の男と会うことになる。その男は、どうやら右翼の大物政治家の部下であるらしい。黒服の男は、羊の写真が使われている生命保険の広告を取り下げてほしいと要求する。その広告に使われている写真の中に、星の印のついた特殊な羊がいるということを指摘する。そしてその羊を君に捕まえてきてほしいのだ、と。この写真は僕の友人である鼠が撮ったものだった。僕は星のついた羊を探しに、耳のきれいなガールフレンドと伴に冒険に出かける。

 

 この小説の最後に、かつては馴染みのある港だった、今は埋め立て地になってしまった場所で、僕が泣くというシーンがある。それはどこか、自分自身の記憶の墓標に向かって泣いているみたいに見えた。

 

 村上春樹は、世界はメタファーだということを言っていた。だとすると、思い出の地が埋め立てられるということは、思い出がなくなる、遠ざかっていくということでもある。そしてそれは死に近づいているということも表している。

 この小説では、僕が様々なものを喪失しているのを思い出していただきたい。確か、「僕は街を失った」という記述があったはず。さらに、僕は離婚したことになっている。ジェイズバーも移転した。世界はどんどん変わっていき、僕のなじみの風景がなくなっていく。これは実に素朴な人間の実感だという気がする。

 もちろん、人は外界の変化に対応していくわけだけど、それでも、時には、悲しかったり疲れを感じたりするものだ。そして弱い人間はそれについていけない。それが鼠だったんじゃないかと個人的には思った。この小説の中で、鼠は自分の中で良い記憶として残っていた、北海道の別荘を訪れている。その別荘は、冬になると豪雪で、道ですら凍ってしまい、世の中から隔絶されてしまう。そのような場所に、いわば記憶の底に、鼠は沈静している。都会の中で、色々なものを失くしながらも生活している僕とは対照的である。

 

 土地に結びついた僕の記憶が消えていく。これはそのまま孤独になるということを表しているとも思う。人間(の記憶)は位置に束縛されない存在になっていく。亡霊のような、量化された自己意識。具体的な記憶がなくなっていく、自分の周りの世界がどんどん抽象的になっていく。フランシス・ベーコンエドワード・ホッパーなどが描いた絵画の世界。たぶん現代というのはこのような孤独を抱えて生きている人が多いんじゃないか。

 いつだったか、村上春樹の小説は土着性がない、という話を読んだ気がするけど、実はそういうわけでもないという気がした。なぜなら、この小説は、失われた懐かしいものを、もう一度確かめるための冒険でもあったわけだから。