まだ無名の風景たち

そしてその情景

ゴーストワールド おかしさの中に「寂しい」がある

 

 気の合う二人組、イ―ニドとレベッカは、高校を卒業したはいいものの、特に何をするわけでもなく毎日を無為に暮らしていた。二人は 暇つぶしにと、新聞の恋人募集の欄にあった電話番号にいたずら電話をかける。二人はジョシュという同級生の男子を連れて、電話で約束したカフェで男があら われるのを待つ。カフェにやってきたシーモアという男は、いかにもモテなさそうな、冴えない男だった。二人は好奇心からシーモアを追いかける。

 

  たぶん、こんな時期が誰にでもある。高校を卒業したくらいか、大学生くらいか。だらけているだけで、なにをすればいいのかわからない。でも現実は気に入ら なくて、ふてくされている。家がいやだ、親がいやだ、街がいやだ。ださいし、何にもないじゃん。暇でしょうがない。それに加え、自分の中に不満やら性欲や らエネルギーだけが溜まっていって、その吐き出し方がわからない。

 

 これはそんな時期の女の子の話し。

 

  この映画には変にリアリティがる。そのリアリティというのは、「ダサさ」から来くるものだと思う。この映画に出てくる人間はダサいんです。冒頭では、主人 公たちが「サタニスト」?みたいな変なカップルを追いかけるし、それに、イ―ニド自身がレコードマニアだったりする。街もダサくて、典型的な郊外のちょっ とした街という感じがある。歩道になぜかジーパンが落ちていたり、(たぶん肉体労働でもしてその帰りなんだろう)酔っ払いがコンビニで騒いでヌンチャクを 振り回したりしている。学校には、美術の授業のに身の入らない生徒と、そ れに気づかないでわが道を行く先生。そういうダサくてパッとしない街の風景などが妙にリアリティがあって、親近感を覚える。このような人間 描写がいたるところにちりばめられている。

 シーモアもダサい人間として登場する。いたずら電話にすっかり騙されたシーモアが、それでもLサイズのミルクシェイクを飲み干し、ストローの先っちょをぺロリと舐める様は、寂寥感さえ感じた。

 とはいえ、この映画はそのダサさに親近感を持っているのではないかなと思った。じっさい、イ―ニドはシーモアに魅了されていくのだから。

  でも、この映画には、おかしさだけでなく、奇妙な寂寥感がある。田舎特有の寂寥感みたいなもの。郊外の平べったいコンクリートのうえのデパート的な寂寥 感。どうしてこんなところにこんなデパートを建てたんだろう的な。人来るのかなとか、どんな人が働いているのかなとか・・・。そんな感じの寂しさがこの映 画には漂っている。映画の冒頭に、マンションの住人を次々と窓の外から撮っていくシーンがある。それが象徴しているように、やはりイ―ニドもこの街の住人 なのだ。古い音楽を聴いたり、精一杯お洒落をしているイ―ニド。でも、イ―ニドはやっぱり冴えない田舎の街の住人であることには変わりはない。

 

 この映画は滑稽なんだけど、寂寥感がある。これが不思議なところです。何と言うか寂しいがある。とても寂しい。

  たぶん、この映画の中では、イ―ニドがもっともこの寂しさを感じている登場人物なんじゃないか・・・。世界がいつまでもパッとせず、冴えないまま回り続け るということが、死ぬほど寂しいんじゃないか。で、イ―ニドの周りの人間たちはそのことに気づかない。みんな冴えない生活に驀進していく。でも、そのよう な滑稽な世界こそが善良で凡庸な人間の暮らしなのかもしれない。最後には、イ―ニドが気に入っていたシーモアさえ凡庸な人間に見えてしまう(これは主人公 であるイ―ニドが女性だからこそかもしれない)。イ―ニド自身でさえ、この凡庸な街の住人なんだけど、この寂寥感だけは胸の中から消ない・・・。

 

 最終的にイ―ニドはこの街を去っていく。けっきょく、イ―ニドが亡霊だったのか、街全体が亡霊だったのか、ぼくにはわからなかった。

 

 実はこれ、けっこう良い映画です。若い人は特に気に入るかもしれない。若者の気分をうまく描いている。それでいて、エンタメ性もある。

 隠れた名作ですよ。

 ゴーストワールド。監督はテリー・ツワイゴフ