まだ無名の風景たち

そしてその情景

ストレンジャー・ザン・パラダイス 「その肉どこから来たの?」「牛だろ」

 

 だらだらとテレビを見ているシーンが流れたり、競馬に出かけようぜなんて会話をしていたり、ポーカーでイカサマをしたりしています。そんな映画です。ヒーローも出てこないし、何かイデオロギーを訴えるわけでもありません。感動もしないです。けれども、この作品にはユーモアと、ローカルな人間たちに対する愛があります。

 

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 どちらかと言えば映像を楽しむ映画なのでしょう。白黒の映像が映し出すニューヨークに住んでいる男の部屋は、なぜか新鮮味があります。古いSF映画を見ているような、そんな感じ。本当はよく知っている日常的な生活が異化されているんです。だから、新鮮味がある。子どもが初めて物を見た時のような。そしてそれにはフィクションとしてのリアリティがあります。

 

 例えば、ウィリーはレトルト食品をチンして食うわけですが、そのレトルト食品がひどく奇妙なものに見えます。それらは普段私たちも口にしているはずですが・・。

 エヴァがその奇妙な食品を食っているウィリーに尋ねます。

「その肉どこから来たの?」

 ウィリーは答えます。

「牛だろ」

 

 映画の視点はエヴァの視点と言ってもいいかもしれません。エヴァはニューヨークに来たばかりなので、見る物聞くもの全て不思議に映るはずですから。

 

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 ウィリーとエディの二人は、イカサマで儲けた後、クリーブランドに行ってしまったエヴァを迎えに行って、フロリダ観光に向かいます。が、行ったはいいものの、やることがない。何せ彼らはまともな定職もない(よう見える)ような、その日暮らしの人たちなので、何か社会的なつながりがあるわけではないため、話が発展していかないのです。三人は寂しいモーテルに泊まっているだけで、やることがありません。結局、ウィリーとエディは競馬に行ってしまいます。ニューヨークにいた頃と同じことをやっているわけです。

  主人公(?)であるウィリーの特徴は、とらえどころがないという所です。ウィリーはたぶんハンガリー人で、アメリカ人ではないのですが、友人のエディは、どうやらウィリーのことをアメリカ人であると勘違いしていたりします。この映画がすごく現代的に思えるのは、主人公の過去が良く分からないものとして設定されていたり、土着性がなかったり、そういったことが軽さを生んでいるためだと思われます。チェコ出身の作家ミラン・クンデラ著作に『存在の耐えられない軽さ』という小説がありますが、この映画は、いわば軽さの極致にあります。観光地の商業性、その華やかな看板や広告、その見てくれをはがしてしまえば、アメリカのだだっ広い荒涼とした土地があるだけです。

 主人公は軽快にこの詐欺的な風景の中を生きていきます。その無鉄砲な様がなんともカッコイイんです。ラストシーンで、ウィリーは、エディにもエヴァにも、そしてアメリカに対しても、何の未練もなく、飛行機で飛び去ってしまいます。

 

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 最後に。

 この映画で個人的に印象に残ったシーンは、三人が映画館で映画を見ているシーンです。三人がじっと映画を見ているシーンが流れます。ただそれだけです。

 要は、観客は、「映画を見ている人間」を映画で見ているというわけです。実際に映画館でこのシーンを見たとしたら、「あっ、やられた!」と思うに違いありません。

 結局、この映画を見にきた私たちも、この映画の中の人物たちと同じなんです。私たちも彼らと同じ地平にいます。荒涼とした世界の中で、無為にこの映画を見に来たわけです。私たちは同類なんですよ。