ウラジミール・ソローキンの本を(少し)読んで思ったこと ~ポップアートとニヒリズム~

 

 ソローキンという作家を知った。前からなんとなく名前は知っていたが、どうせたいしたことはないだろうと思っていた。アマゾンとかの評価のところに変態作家とか書いてあって、こういう風に名指しされる作家って大抵ろくなやつがいないということを知っていたので、ほとんど無視していたのだ。しかし、現実はまったく違った。『青い脂』という小説を書店で偶然手にしたところからはじまる。たしか引用があって、ひとつはニーチェのもので、もうひとつは忘れた。けれど、この引用と、小説に書かれている内容、それから言葉による構成が、すべてマッチしていた。ああ、これは思っていたのと違ってすごい作家なのかもしれない、とこの時ようやく気づいた。

 

 小説を読んでショックを受けるのは久しぶりだった。

 いろいろと触発されるところがあったので、感じたことなどをちょっと書いてみようと思う。

 

 少し調べたところによると、この人はもともとはポップアートとかをやっていたらしい。けっきょくのところ、この人の小説観というものが、他の作家とはまったく違うのだった。だから、こうおもしろいものができたようだ。

 

 内容と形式の一致。これはジョイスの「若い芸術家の肖像」くらいからなされてきた。幼少期のころを小説として書くときに、赤ちゃん言葉を使って文章を組み立てるというような。これに似たようなことは確かに多くなってきた。この時くらいから、小説を単なるテクスト、文字の羅列としてとらえる動きはあったような気がする。

 

ソローキンを読んで気づいたことがあった。それは、現代というのはイメージが過剰 だということだ。もともと人間というのは、イメージを構成して、世界をとらえる生き物なのだろうけれど、何か閾値を超えてしまったような感じさえある。ある対象について、勝手なイメージが先行してしまっている。たとえば、自動車に乗って移動するという時、それは単なる物理的な移動だけを意味するわけではない。いやむしろ、「単なる物理的な移動」という事実さえ忘れてしまっているのではないか。


 ソローキンのやっていることは、けっきょく、そういった固定観念の批判だと思う。そしてそれは、小説というのは単なる文字の羅列だ、と確認することに似ている。自動車に乗るということは単に物理的に移動することだ、と。

 

 でも、こういう批判の仕方は日常で良く耳にする種類のことではある。たとえば、野球というのは投げられた玉を打ち返すスポーツだとか、そういう言説だ。でも、こういった言説の意味を実感している人はじつは少ないのかもしれない。非常に逆説的だけど、われわれが何かに夢中になっているとき、そのときが一番、物事の単純なあり方を見逃している時なのかもしれない。だから、ほんらい、こういった言説は誰かを夢から覚めさせるという危険がある。そしてその物事に深く関わっている人ほど、こういう言説にはショックを受けるはずだ。ショックだけれども、ある意味、浄化作用はある。

 

 ただ、こういうポップアート的なものに対する批判があるとすれば、ポップアートは、それ自体を楽しむものではないということだ。(ソローキン的な?)ポップアートというものは、それまでの文脈を完全に否定して、それをおもしろおかしくさせて笑う、というものだけど、それはつまり、外部の文脈に強く束縛しているわけでもある。笑う対象を定めなければならないからだ。

 ベルクソン的な言い方をすれば、人がおかしみを覚えるのは、その対象に機械的なこわばりがあるからだ。つまり、ある対象を人が笑うとき、それがイメージであれなんであれ、人はその対象を「もの」として捉えるのである。こうして、人はある対象を真に客観的に見ることができるようになる。

 つまり、(ソローキン的、あるいは批判的?)ポップアートというのは、何か「もの」を客観的に見るために仕組むものなのであって、作られたもの自体の内容にあるわけではない。どちらかというと、概念を作るというのに近い感じさえある。幾何学における無定義語に近いと言えるかもしれない。

「それは君のイメージしているものとは違って、ただのものだ」ということを確認するための機会。それが(ソローキン的?批判的?)ポップアートなのかもしれない。自動車に乗るということは物理的に移動することだと確認すること・・・。

 でも、それはアートを鑑賞するという行為も、それからアートを作成するという行為も、おかしいものだと確認することでもある。それって、何か苦しい笑いのような気がする。要は、自己否定、われわれのいる現実の批判・否定につながってくるわけだけど、そうしたところでその先に何があるのだろう、とわたしは思ってしまう。批判した先に何があるのか。


 おそらく、何もない。だた、それは自分たちの現実を一種の客体として見る良い機会にはなる。けれど、その後に残っているのは、茫然自失とした自分だけだ。美術館を出れば、わたしたちはやはりイメージに束縛されて生きている現実の立ち返ってくる。コマーシャルやら、繰り返す日常や昨日見たテレビドラマの話とか、様式ばった世間の儀式の数々。それらを疑わずに生きていく人々。どちらにせよ、わたしたちは生きていかざるを得ない。日常の中に生きていくということは、たぶん、こういうイメージの中に生きていくということなんだろう。

 

 大学生のころ、文芸批評とか良く読んでいたことを思い出した。そして、何でそれらを読むのをやめたのかも思い出した。
 批評や批判の先には何もない。それは自己否定にさえつながる。それに耐えられる人間がいるだろうか。自分を笑える人間がいるだろうか。
 仮に自分を笑える超人がいたとしても、その先には何もない。自分にとって、批判や批評の問題は、それだったのだ。