無口と反抗心

 たしかに自分は無口な人間だ。会社の同僚が「〇〇って本当に無口だよなあ」とあらためて言うと、自分は「よし、お前がそう言うなら、俺はもっと黙っていてやろう」などと頭の中で強く思うのだった。

  でも、あとになって僕はふと気がついた。自分にとって、黙るという行為は、強い意志表示を意味していたのだということを。ふつう、黙るというのは消極的な 行為だと思われている。じっさい、自分でもそう思っていた。自分は消極的な人間なのだと思っていた。でも、本当はそうじゃない。僕は、実に頑固な人間なのだ。僕は、他人に対抗する手段のひとつとして、黙る、ということを選択していた。そして、ますます僕は頑なになっていった。僕は、口がぴったりと閉じて開かない貝殻みたいになっていった。

 矛盾したふたつのことが、自分の中に同時に存在している。バカみたいな話しだが、僕は、これは本当にあることなのだと気がついた。

 それに、黙る、ということが行動であり意志表示であるということが良くわかった。なぜなら、現在の自分の状況を作っているのは、こういう常日頃の自分の行動だからだ。人は常に選択を迫られている。自分という人間は、知らず知らずのうちに状況を選びとっている。そして、無意識のうちに選び取った状況が、自分という人間を形成していく・・・。

 会社の席に座り、仕事をしている振りをしながら、僕はそんなことを考えていた。けっきょくのところ、自分はどこまでも自分なのだろう。状況が良くなろうが悪くなろうが、それは常に自分のしたことの裏返しなんだろう。

 そう気がつくと、自分でもびっくりした。自分って、いままでこんな生き方をしてきたのかと思うと。ひとつ謎が解けたような気がした。心の中で何かが氷解した。

 

 帰りの電車の中で、僕はまだこのことについて、考えていた。そして、ふとカフカの言葉を思い出した。「君と世界との戦いでは、世界を支援せよ」だったか、どこかでこのカフカの言葉が頭に残っていた。僕は携帯を取りだし、検索をかけてみた。そこで、「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」というサイトを見つけた。

 カフカもかなり変わった人間だったんだな、と思った。こういうとき、小説や映画や音楽、それになにより、自分と似たような人間がいるんだという事実が、何より力になってくれる。

 

人が倒れていた

 夜の八時くらいに、アパートの近くにあるドラックストアとスーパーに買い物に出かけた。ドラックストアで洗剤とかを買って、スーパーで冷凍食品とか野菜とかを買った。そして、両手に袋をぶら下げて、アパートに戻る帰り道。住宅街の道に入ったところだった。

 歩道と道路の間の縁石のようなところを跨いで、人が仰向けに倒れていた。はじめは変人か変態かなあと思った。ほんとうにそう思った。前を見ると、黒いバンが停まっていて、女の人が何やらしている。さっきスーパーにいた人かな?と僕は思った。買い物袋を車に積んでいるところだったのかもしれない。

 僕はおそるおそる倒れている人に近づいて、顔をのぞいてみた。浮浪者っぽいと思った。髪は伸びていて、無精ひげも生えていたような気がする。口の周りが汚れているように見えた。年は35歳か40歳くらいだろうか?

 僕はさっきのバンのほうを見る。女の人がこの倒れている人に気がつくんじゃないかと思って。「あら、大変」とでも言って、助けに来てくれるのではないかと思って。でも、バンはもう行ってしまった。周りには誰もいなくなった。周りに誰もいなくなったので、僕がなんとかするしかなくなった。

 「大丈夫ですか?」と声を掛けると、「あぁ、うぅ」と言いながら浮浪者のような人は立ち上がろうとする。そして、近くにあった手すりに手を掛けた。ろれつの回らない舌で「ちょっと、三日くらい寝ていないんですよ」とその人は言った。その人は作業着のようなグレーの服を来ており、下は濃い青色のジーンズだった。

 「三日くらい寝ていない?」

 一体、この人はどういう状況に置かれているんだろう?日雇い労働者か何かだろうか?

 声を掛けられたことで驚いてしまったのか、倒れているところを人に見つかってしまったのが嫌だったのか、その人は歩きだそうとする。しかし、その人は「あぁ」と弱弱しく言って、倒れてしまった。

 警察か消防に連絡しよう、と僕は思ったのだが、携帯を持ってきていなかった。アパートに置きっぱなしだ。どうしよう。そう思っていると、ちょうど向こうから自転車に乗った人がやってくるのが見えた。若い人。三十代くらいか。僕が手を上げて、「すみません」と言うと、その人は、耳からイヤホンをとる動作をして、「はい?」と言った。「あの、何か人が・・・」と僕が言うと、その人は自転車の速度は落としたものの、そのまま行ってしまった。

 僕は、近くにあった民家の呼び鈴をならした。「どちらさん?」という男の人の声。「あの、ちょっと人が倒れていて、僕、ちょっと通りがかった者なんですけど、携帯持っていなくて、警察か救急に連絡したほうが・・・」

「人が倒れている?どこに?」

「あ、すぐ近くです」

「ちょっと、待って」

 扉が開いた。年配の男性が出てきた。

「ほら、あそこに」と僕は言って、倒れている人の方を指差した。

「あら、大変だ」

「警察か、救急車でも呼んだほうが・・・」

年配の男性の人が扉から出てきた。そして、倒れている人のところに近づいていった。

「だいじょうぶかい?」と男性は聞いた。

 浮浪者のような人は目を開けるが、目が回っているというか、焦点が合っていない感じだった。それに、さっきは気がつかなかったが、鼻血が出ているようだった。顔の汚れだと思っていたのは、鼻血だったのだ。

 年配の男性は、自宅に戻っていった。息子のような人に、救急車を呼ぶように指示していた。数分たって、また年配の人がやってきた。ゴミ袋と、枕を持っている。遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。さいわい、近くに消防署があった。それで、すぐに来たのだ。男性が両手を振って、救急車に合図した。

 救急車が停まって、隊員が降りてきた。青っぽい服に、ヘルメットを被っていただろうか。いつの間にか、担架が用意されていた。若い隊員がやってきて、「通報者は誰ですか」と言った。

「通報したのは私です」と年配の男性が言った。「見つけたのはこちらさん」

「苗字だけ伺ってよろしいですか?」と若い隊員が言った。

「私は○○です」と年配の男性が言った。

 若い隊員は、ボールペンで手袋にメモしていた。

「どうも、ごくろうさまでした」と隊員は言った。

 

 この出来事のあと、「倒れている人は助けるな」という言葉が中国にあるらしいことを知った。利得をめぐって疑心暗鬼になると、ほんとうに住みにくい世の中になる。

 でも、なんというか、こういう非日常というのはすぐ近くにあるような気がする。助けるか、助けないみたいな、二択しかないような状況が。こういう状況に恐れを抱くだろうか、あるいは、踏み込んでみるだろうか・・・。難しい世の中になった。

祭りの夜、流刑地

 

駅ビルの書店で、『祭の夜』という本を買いました。

 

パヴェーゼはあまり知られていない作家のような気がします。

どちらかというと、彼はマイナーですよね。個人的にはちょっと気になる作家だったんですけれども。

 

立ち読みした時、『流刑地』が気に入りました。

何らかの理由によって、人生から疎外されている者たちがやってくる流刑地。

 

彼は、自分自身を含めた状況を、客観的に見る力がある人間だったのだと思います。

 

たとえば、『侵入者』。

主人公は、あくまで同居人を悪人と定めているわけではない。

悪人であるとか、善人であるとか、そういったすべての判断を常に留保している。

主人公は、冷静に状況を見ようとする。

でも、そうすることで、中立の立場を取ろうと努力することで、苦しくなってくる。

 

冷静に、客観的に物事を見ようとすることが、主人公に絶望をもたらす。

状況を言語化し、分析することで、周りの日常が異化されてしまうからだ。

夢から覚めたような状態になり、自分だけが、普通の人々が見ている夢から締め出されているような感覚。

 

彼は、やはり、追放された人間だったのでしょう。

 

彼にとって心休まる場所、あるいは追い求めた風景というのは、実は『流刑地』で見たような風景なのではないでしょうか。

夏の暑さ。イタリアの自然。海や丘。

まだ名前のない無名の風景たち。

 

そこにはいろんな人間がやってくる。

小説の主人公。

政治的に追放されたもの。恋に破れた者。

わたしやあなた。

 

*****

 

彼がもっと書き続けていたら、もっと良いものが書けていたのではないかな、などと思ったりしました。

でも、彼が残した、やさしくて滑らかな文章は、ある種の人々には感銘を与えるに違いありません。