緊張しいの自分のために考えた

 仕方のないことだが、職場で人とコミュニケーションを取る必要がでてきた。ちょいちょい人前で話さなければならなくなった。

 自分はどうも声が小さいらしく、今までを振り返って見ても、「もっと声をはれ」とか言われていた。それに加え、自分は緊張しいなので、声が震えてしまう。というわけで、人前で話すのは自分にとって嫌な行為だった。自分は無口だし、大きい声も出したくない。できれば、ひとりで黙っていて、音楽でも聞きながらコーヒーでも啜っていたい。けれど、そんなことも言っていられなくなった。

  完全に苦手を克服とまではいかないまでも、自分なりに少しでも改善する方法を考えた結果が、「ゆっくりと、一語一語はっきりとしゃべるということ」だった。

 わざとらしいくらいゆっくりな方が、喋りが苦手な人間にはいいのかもしれない。そして、略さないということが重要だ。「おざーす」じゃなくて、「おはようございます」とわざとらしく一語一語しゃべる。語尾まではっきり。特に人前とかで緊張している場面では、口がうまく回らないまま、早口でかつ小さい声でしゃべってしまうということが起きていた。そういうのを防止するのと、少しばかり自分を落ち着けて、ちょっとばかし周りが見えるようにもなる。劇的な効果こそないが、自分みたいなコミュ障の人にはおすすめ。

 とはいえ、苦手なものは苦手だ。人間なんてそんなものだ。少しずつ慣れていこう。

高校生のころ、逃避先は映画だった

 なぜかわからないけど、最近になって、映画を見ても心動かされることがなくなってきた。どういう心境の変化があったかわからないけど、むかしみたいに熱中することがなくなった。これは、何なんだろう。

 高校生のころは、金曜ロードショーと、日曜洋画劇場は必ず見ていた。学校に行くのが嫌だったから、その逃避先が映画だった。自分は高校のころからどんどんと成績が下がっていって、いろいろうまく行かなくなり、その鬱屈したエネルギーが、映画に向かっていった。テレビに映し出される、名前もない場所。コンクリート、金網、レンガ・・・。とにかくなんでもいい、自分の知らない世界がそこにある。自分の周囲の現実とは違う場所。それに強く憧れていた。家や学校や、自分のなじみのある風景から逃げ出し、そして忘れたかった。自分は、映画の世界に意識をもっていくことで、それをしていた。若者らしいエネルギーがすべて、そういう方向に流れていったという感じだった。

 高校の頃の僕が妙に覚えている映画があって、それは「戦場のピアニスト」だった。僕は、なぜかこの映画が好きで、DVDも買ったりした。この映画のすごいところは、主人公が闘わないところだ。ただ逃げているだけである。ただ逃げているだけなのに、この映画を観終わったあとには、何か歴史を目撃したような、疲れたような感じを覚えるのだった。主人公がラスト近く、崩れた家々が地平線まで続く荒れ果てた道路を片足を引きずりながら歩いていくシーンがある。まるで、歴史の荒廃を暗示しているようなシーンだ。そのシーンの後、映画のラストで、主人公がピアノで、オーケストラの演奏が流れる。今度は午後のひだまりのような心地よさだ。いままでの出来事が嘘だったかのような、平和で調和のある世界。

 どんなことがあろうと、歴史は流れ、過ぎ去っていく。

 

 最近の自分が無感動になったかというと、けっしてそういうわけではない、と思う。妙に音楽にこだわるようになったし、本もときどきは読む。感動もする。鳥肌だって立つ。

 ただ、映画に対して、そこまで感情移入できなくなった。映画を見て、何かを感じたり、考えたりはする。けれど、むかしのように夢中になって見ることはなくなった。もしかすると、高校の頃と比べて、自分の中で変化があったのかもしれない。高校の頃とは、状況が変わった、ということなのかもしれない。

 映画に夢中になることがなくなった。でも、それは、むかしの精神的な危機が去ったということも意味しているだろうし、他にもいろいろ知りたいことが出てきたということなのだろう。これはこれで成長した。と、自分は思いたい。

無口と反抗心

 たしかに自分は無口な人間だ。会社の同僚が「〇〇って本当に無口だよなあ」とあらためて言うと、自分は「よし、お前がそう言うなら、俺はもっと黙っていてやろう」などと頭の中で強く思うのだった。

  でも、あとになって僕はふと気がついた。自分にとって、黙るという行為は、強い意志表示を意味していたのだということを。ふつう、黙るというのは消極的な 行為だと思われている。じっさい、自分でもそう思っていた。自分は消極的な人間なのだと思っていた。でも、本当はそうじゃない。僕は、実に頑固な人間なのだ。僕は、他人に対抗する手段のひとつとして、黙る、ということを選択していた。そして、ますます僕は頑なになっていった。僕は、口がぴったりと閉じて開かない貝殻みたいになっていった。

 矛盾したふたつのことが、自分の中に同時に存在している。バカみたいな話しだが、僕は、これは本当にあることなのだと気がついた。

 それに、黙る、ということが行動であり意志表示であるということが良くわかった。なぜなら、現在の自分の状況を作っているのは、こういう常日頃の自分の行動だからだ。人は常に選択を迫られている。自分という人間は、知らず知らずのうちに状況を選びとっている。そして、無意識のうちに選び取った状況が、自分という人間を形成していく・・・。

 会社の席に座り、仕事をしている振りをしながら、僕はそんなことを考えていた。けっきょくのところ、自分はどこまでも自分なのだろう。状況が良くなろうが悪くなろうが、それは常に自分のしたことの裏返しなんだろう。

 そう気がつくと、自分でもびっくりした。自分って、いままでこんな生き方をしてきたのかと思うと。ひとつ謎が解けたような気がした。心の中で何かが氷解した。

 

 帰りの電車の中で、僕はまだこのことについて、考えていた。そして、ふとカフカの言葉を思い出した。「君と世界との戦いでは、世界を支援せよ」だったか、どこかでこのカフカの言葉が頭に残っていた。僕は携帯を取りだし、検索をかけてみた。そこで、「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」というサイトを見つけた。

 カフカもかなり変わった人間だったんだな、と思った。こういうとき、小説や映画や音楽、それになにより、自分と似たような人間がいるんだという事実が、何より力になってくれる。