人が倒れていた

 夜の八時くらいに、アパートの近くにあるドラックストアとスーパーに買い物に出かけた。ドラックストアで洗剤とかを買って、スーパーで冷凍食品とか野菜とかを買った。そして、両手に袋をぶら下げて、アパートに戻る帰り道。住宅街の道に入ったところだった。

 歩道と道路の間の縁石のようなところを跨いで、人が仰向けに倒れていた。はじめは変人か変態かなあと思った。ほんとうにそう思った。前を見ると、黒いバンが停まっていて、女の人が何やらしている。さっきスーパーにいた人かな?と僕は思った。買い物袋を車に積んでいるところだったのかもしれない。

 僕はおそるおそる倒れている人に近づいて、顔をのぞいてみた。浮浪者っぽいと思った。髪は伸びていて、無精ひげも生えていたような気がする。口の周りが汚れているように見えた。年は35歳か40歳くらいだろうか?

 僕はさっきのバンのほうを見る。女の人がこの倒れている人に気がつくんじゃないかと思って。「あら、大変」とでも言って、助けに来てくれるのではないかと思って。でも、バンはもう行ってしまった。周りには誰もいなくなった。周りに誰もいなくなったので、僕がなんとかするしかなくなった。

 「大丈夫ですか?」と声を掛けると、「あぁ、うぅ」と言いながら浮浪者のような人は立ち上がろうとする。そして、近くにあった手すりに手を掛けた。ろれつの回らない舌で「ちょっと、三日くらい寝ていないんですよ」とその人は言った。その人は作業着のようなグレーの服を来ており、下は濃い青色のジーンズだった。

 「三日くらい寝ていない?」

 一体、この人はどういう状況に置かれているんだろう?日雇い労働者か何かだろうか?

 声を掛けられたことで驚いてしまったのか、倒れているところを人に見つかってしまったのが嫌だったのか、その人は歩きだそうとする。しかし、その人は「あぁ」と弱弱しく言って、倒れてしまった。

 警察か消防に連絡しよう、と僕は思ったのだが、携帯を持ってきていなかった。アパートに置きっぱなしだ。どうしよう。そう思っていると、ちょうど向こうから自転車に乗った人がやってくるのが見えた。若い人。三十代くらいか。僕が手を上げて、「すみません」と言うと、その人は、耳からイヤホンをとる動作をして、「はい?」と言った。「あの、何か人が・・・」と僕が言うと、その人は自転車の速度は落としたものの、そのまま行ってしまった。

 僕は、近くにあった民家の呼び鈴をならした。「どちらさん?」という男の人の声。「あの、ちょっと人が倒れていて、僕、ちょっと通りがかった者なんですけど、携帯持っていなくて、警察か救急に連絡したほうが・・・」

「人が倒れている?どこに?」

「あ、すぐ近くです」

「ちょっと、待って」

 扉が開いた。年配の男性が出てきた。

「ほら、あそこに」と僕は言って、倒れている人の方を指差した。

「あら、大変だ」

「警察か、救急車でも呼んだほうが・・・」

年配の男性の人が扉から出てきた。そして、倒れている人のところに近づいていった。

「だいじょうぶかい?」と男性は聞いた。

 浮浪者のような人は目を開けるが、目が回っているというか、焦点が合っていない感じだった。それに、さっきは気がつかなかったが、鼻血が出ているようだった。顔の汚れだと思っていたのは、鼻血だったのだ。

 年配の男性は、自宅に戻っていった。息子のような人に、救急車を呼ぶように指示していた。数分たって、また年配の人がやってきた。ゴミ袋と、枕を持っている。遠くから、救急車のサイレンが聞こえる。さいわい、近くに消防署があった。それで、すぐに来たのだ。男性が両手を振って、救急車に合図した。

 救急車が停まって、隊員が降りてきた。青っぽい服に、ヘルメットを被っていただろうか。いつの間にか、担架が用意されていた。若い隊員がやってきて、「通報者は誰ですか」と言った。

「通報したのは私です」と年配の男性が言った。「見つけたのはこちらさん」

「苗字だけ伺ってよろしいですか?」と若い隊員が言った。

「私は○○です」と年配の男性が言った。

 若い隊員は、ボールペンで手袋にメモしていた。

「どうも、ごくろうさまでした」と隊員は言った。

 

 この出来事のあと、「倒れている人は助けるな」という言葉が中国にあるらしいことを知った。利得をめぐって疑心暗鬼になると、ほんとうに住みにくい世の中になる。

 でも、なんというか、こういう非日常というのはすぐ近くにあるような気がする。助けるか、助けないみたいな、二択しかないような状況が。こういう状況に恐れを抱くだろうか、あるいは、踏み込んでみるだろうか・・・。難しい世の中になった。

祭りの夜、流刑地

 

駅ビルの書店で、『祭の夜』という本を買いました。

 

パヴェーゼはあまり知られていない作家のような気がします。

どちらかというと、彼はマイナーですよね。個人的にはちょっと気になる作家だったんですけれども。

 

立ち読みした時、『流刑地』が気に入りました。

何らかの理由によって、人生から疎外されている者たちがやってくる流刑地。

 

彼は、自分自身を含めた状況を、客観的に見る力がある人間だったのだと思います。

 

たとえば、『侵入者』。

主人公は、あくまで同居人を悪人と定めているわけではない。

悪人であるとか、善人であるとか、そういったすべての判断を常に留保している。

主人公は、冷静に状況を見ようとする。

でも、そうすることで、中立の立場を取ろうと努力することで、苦しくなってくる。

 

冷静に、客観的に物事を見ようとすることが、主人公に絶望をもたらす。

状況を言語化し、分析することで、周りの日常が異化されてしまうからだ。

夢から覚めたような状態になり、自分だけが、普通の人々が見ている夢から締め出されているような感覚。

 

彼は、やはり、追放された人間だったのでしょう。

 

彼にとって心休まる場所、あるいは追い求めた風景というのは、実は『流刑地』で見たような風景なのではないでしょうか。

夏の暑さ。イタリアの自然。海や丘。

まだ名前のない無名の風景たち。

 

そこにはいろんな人間がやってくる。

小説の主人公。

政治的に追放されたもの。恋に破れた者。

わたしやあなた。

 

*****

 

彼がもっと書き続けていたら、もっと良いものが書けていたのではないかな、などと思ったりしました。

でも、彼が残した、やさしくて滑らかな文章は、ある種の人々には感銘を与えるに違いありません。

ヴィム・ヴェンダース『RADIO ON』 感想

 

 この『RADIO ON』に限らず、ヴィム・ヴェンダース作品に通じるものとして、「何かに対する疲れ」があると思う。そしてヴェンダースは、疲れからの逃走を描いているように思う。  

 

 この作品は、上記の法則からいくと、工業化された社会からの逃避願望を描いていると思う。

 映画の冒頭、主人公の選曲した曲が、工場内に大音量で流れているというシーンがある。音楽は癒しのはずだが、そこで働いている人は疲れている。なぜかというと、疲れをごまかすために音楽をかけているからだ。工場の機械の音をかき消すために、それ以上の音で音楽をかけているのだ。なんとも大雑把なディストピアだ(が、カメラで撮れば面白い画になるはずだ)。

 

 カメラは、人口的な直線と曲線、高速道路、高層マンション、テレビ、冷蔵庫、計器やメーター、ベルトコンベアー、テレビゲーム、蛍光灯、そんな都会的な物たちを写していく。白黒で、そして独特の構図で映し出されたそれらは、奇妙な手触りと質感がある。そこにクラフトワークなどの音楽が流れると、なんだか、私たちは機械の体内で日々暮らしているんだな、なんてことが再認識されてくる。

 

 この映画には妙に殺伐とした所がある。それに奇妙な危うさもある。

 主人公は、兄が自殺したという知らせを聞き、兄の住んでいた部屋を尋ねに行く。自殺の理由などは明かされない。たぶん理由のない自殺なんだろう。こういう所に、殺伐とした時代の雰囲気を感じる。なんとなく疲れたから死んだというような。

 主人公が運転する車に乗ってきたヒッチハイカ―は軍を辞めてきた男だが、そいつも悪態をついて、今後の生計の立て方に不安を抱いたりしている。世界は機械的に整った風景になっているのに、そこに住んでいる人間は、どこか荒れているのだ。

 

 おそらくヴェンダースは機械とかは実は結構好きなんじゃないだろうか。ヴェンダースは映像作家だ。たぶん、彼は面白いものを見つけると撮らずにはいられないのだろうし、そういうものからインスピレーションを得ているに違いない。実際、この映画に映し出されている機械や建築物は、純粋にフォルムだけ見れば、面白かったりする。しかし、この作品は、その機械を作っている工業化社会の暗部も描いているのだ。

 

 この映画で映し出される現実は苦しく、陰惨な風景が広がっているが、一方で、旅というファンタジックな要素と、カメラで世界を撮るということの楽しさも同居している。

 

主人公は最後、電車に飛び乗るわけだけど、それでも彼は工業的な社会の体内にいるままだ。ある意味、終わり方としては中途半端ではある。完全な逃走は成功していないように思える。ヴェンダースにとって、この映画はまだはじまりに過ぎなかったのかもしれない。