ソーシャルネットワーク 天才がゆえの孤独

 

 久々の更新。以前に見た映画。うろ覚えなので、所々おかしいところがあるかもです。

 

 主人公はいわずと知れたマークザッカーバーグです。どうもこの映画はフェイスブック批判、あるいはザッカーバーグ批判という文脈で見られることが多いような気がしますが、デイヴィッド・フィンチャ―はそんなに単純な監督なのかなぁ、と私は以前から思っていたので、今回思ったことを書いていこうと思います。

 

 フィンチャ―映画の特徴は独特の画の暗さではないでしょうか。ほの暗いです。そのおかげで、登場人物に影が付き纏っている感じたり、世界が閉じているように感じたりします。『セブン』や『ファイトクラブ』などを見ると良くわかります。そしてこの映画『ソーシャルネットワーク』も同様です。特に主人公であるマークにはそれがひしひしと感じます。

 トレーラーにも使われているはずのシーンで、大学内でハッキングコンテストのシーンがありますが、これも周囲が暗く、世界が閉じているように見えます。みんな盛り上がっていますが、どこか寂しさも漂っているのです。人が多い所に行くと急に寂しさを覚える、なんていう人がいますが、それに近い感覚を映像で表現しているような気がします。これはフィンチャ―自身の心象のようにさえ感じました。

 あと、もうひとつ「うまいなぁ」と思うシーンがありました。マークたちがフェイスブック開発をするために借りた(買った?)一軒屋で、ナップスターの開発者であるショーンパーカーが、美女たちと酒を飲んだりと、何やら盛り上がっています。その時、マークは屋外のプールいて、そこでエドゥアルドと電話をしています。二人は口論しています(理由は、エドゥアルドは資金集めに奔走しているわけですが、マークはそこで会う人は鈍いし、時代遅れだと思っているっぽく、それが気に入らなくて口論しているわけです)。で、部屋の中では、ショーンと美女たちのパーティーが盛り上がっています。誰かがシャンパンを振って、それがマークの方に飛んでいきます。一瞬、マークにシャンパンがかかるように思いますが、シャンパンはガラスにかかって、マークにはかかりません。これが暗示しているのは、マークは常にガラスを一枚隔てたように、人と接しているということではないでしょうか。マークは皆が祝杯をあげている時でも、それに加わらず、外部から客観的にそれを見ているわけです。

 例えば、この映画では、マークはショーンパーカーを完全に信頼しているようには描かれていません。ショーンパーカーが、パーティーで薬をやっているところに警察が踏み込むというシーンがありますが、この警察を呼んだのは実はマークなのでは、みたいに匂わせるシーンもあります。

 色々見ても、それほどマークがひどい人間であると断定するような描写はないような気がしました。むしろ、頭の良い人間として描かれているように思えます。頭が良過ぎて、それに周りがついてこれていないというような。というか、マークに周囲にいる人間は、戯画化されて滑稽に見えます(エドゥアルドは女に振り回される役として、ショーンパーカーはアメリカ的な軽薄さや薬で時々いかれちゃう役として、などなど)。というわけで、やっぱりこの映画は、少なくとも、マーク批判ではないと個人的には思います。

イノセンス ~素子について~

 

映画の本筋とは関係ないかもしれませんが、素子について面白いなと思うことがありました。セクサロイドにダウンロードされた際の素子の声についてです。素子の声は声優の田中敦子さんの声です。

素子の声はセクサロイドにダウンロードされても、田中敦子演じる素子の声のままです。バト―の頭の中で響いている声も、田中さん演じる素子の声です。観客もこの声を聞いて、あのセクサロイドには素子の意識が宿っているのだな、とわかります。「精霊はあらわれたまえり」というわけです。

しかし、これは冷静に考えたらおかしいことで、ハードはセクサロイドなのだから、出力される声もセクサロイドの声になるはずだ、とか、そんな風に突っ込みを入れることができます。それでも素子は素子の声です。softalkみたいなボットの声でも良かったはずなのにです。

 

演出上、セクサロイドにダウンロードされたのは素子の意識であるということを示すために、田中敦子の声を使ったと考えることができます。実際、前作『ゴースト・イン・ザ・シェル』のオープニングでは、素子が作られていく様が丁寧に描かれています。こうすることによって、素子が素子であると、観客が認識することができます。それが単なる記号を離れて。

では仮に、素子が純粋に意識だけになったとしたら、どうやって、素子とそうでないものの意識を区別するのでしょうか。声も姿形もいくらでも交換可能なものだとしたら、どうやってこれは素子であると判別できるのでしょうか。おそらく、これが素子であるとわかるのは、素子だけになってしまいます。素子が、素子が素子であると外界に証明する手立てはなくなり、素子は素子の中に閉じてしまいます。これは唯我論に近いと思いますが、それはこの映画の設定上、この映画は唯我論的になっていくんだと思います。

 

伊藤計劃さんが、イノセンス一元論に近づくと言っていたと思います。何も区別できない世界、境界のない世界がある、そのような世界への志向が、結果的に一元論的なんだと思います。例えば完全な虚構の世界を志向したとする、とか。そしてそれらの物事の姿形が、我々の目の前に判別できる形であらわれた時、それの取る形態は虚構なんだということです。伊藤さんは押井監督のことを「映画についての映画を撮る」だったか「映画を思考する」だったか「映画で思考する」という感じに評していたと思いますが、これは実に言いえて妙だと思いました。

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、素子が次のようなことを言っています。

 

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ 。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・

 

素子は虚構である。素子は存在しない。これは虚構なのだ。

ストレンジャー・ザン・パラダイス 「その肉どこから来たの?」「牛だろ」

 

 だらだらとテレビを見ているシーンが流れたり、競馬に出かけようぜなんて会話をしていたり、ポーカーでイカサマをしたりしています。そんな映画です。ヒーローも出てこないし、何かイデオロギーを訴えるわけでもありません。感動もしないです。けれども、この作品にはユーモアと、ローカルな人間たちに対する愛があります。

 

*******

 

 どちらかと言えば映像を楽しむ映画なのでしょう。白黒の映像が映し出すニューヨークに住んでいる男の部屋は、なぜか新鮮味があります。古いSF映画を見ているような、そんな感じ。本当はよく知っている日常的な生活が異化されているんです。だから、新鮮味がある。子どもが初めて物を見た時のような。そしてそれにはフィクションとしてのリアリティがあります。

 

 例えば、ウィリーはレトルト食品をチンして食うわけですが、そのレトルト食品がひどく奇妙なものに見えます。それらは普段私たちも口にしているはずですが・・。

 エヴァがその奇妙な食品を食っているウィリーに尋ねます。

「その肉どこから来たの?」

 ウィリーは答えます。

「牛だろ」

 

 映画の視点はエヴァの視点と言ってもいいかもしれません。エヴァはニューヨークに来たばかりなので、見る物聞くもの全て不思議に映るはずですから。

 

*******

 

 ウィリーとエディの二人は、イカサマで儲けた後、クリーブランドに行ってしまったエヴァを迎えに行って、フロリダ観光に向かいます。が、行ったはいいものの、やることがない。何せ彼らはまともな定職もない(よう見える)ような、その日暮らしの人たちなので、何か社会的なつながりがあるわけではないため、話が発展していかないのです。三人は寂しいモーテルに泊まっているだけで、やることがありません。結局、ウィリーとエディは競馬に行ってしまいます。ニューヨークにいた頃と同じことをやっているわけです。

  主人公(?)であるウィリーの特徴は、とらえどころがないという所です。ウィリーはたぶんハンガリー人で、アメリカ人ではないのですが、友人のエディは、どうやらウィリーのことをアメリカ人であると勘違いしていたりします。この映画がすごく現代的に思えるのは、主人公の過去が良く分からないものとして設定されていたり、土着性がなかったり、そういったことが軽さを生んでいるためだと思われます。チェコ出身の作家ミラン・クンデラ著作に『存在の耐えられない軽さ』という小説がありますが、この映画は、いわば軽さの極致にあります。観光地の商業性、その華やかな看板や広告、その見てくれをはがしてしまえば、アメリカのだだっ広い荒涼とした土地があるだけです。

 主人公は軽快にこの詐欺的な風景の中を生きていきます。その無鉄砲な様がなんともカッコイイんです。ラストシーンで、ウィリーは、エディにもエヴァにも、そしてアメリカに対しても、何の未練もなく、飛行機で飛び去ってしまいます。

 

*******

 

 最後に。

 この映画で個人的に印象に残ったシーンは、三人が映画館で映画を見ているシーンです。三人がじっと映画を見ているシーンが流れます。ただそれだけです。

 要は、観客は、「映画を見ている人間」を映画で見ているというわけです。実際に映画館でこのシーンを見たとしたら、「あっ、やられた!」と思うに違いありません。

 結局、この映画を見にきた私たちも、この映画の中の人物たちと同じなんです。私たちも彼らと同じ地平にいます。荒涼とした世界の中で、無為にこの映画を見に来たわけです。私たちは同類なんですよ。