イノセンス ~素子について~

 

映画の本筋とは関係ないかもしれませんが、素子について面白いなと思うことがありました。セクサロイドにダウンロードされた際の素子の声についてです。素子の声は声優の田中敦子さんの声です。

素子の声はセクサロイドにダウンロードされても、田中敦子演じる素子の声のままです。バト―の頭の中で響いている声も、田中さん演じる素子の声です。観客もこの声を聞いて、あのセクサロイドには素子の意識が宿っているのだな、とわかります。「精霊はあらわれたまえり」というわけです。

しかし、これは冷静に考えたらおかしいことで、ハードはセクサロイドなのだから、出力される声もセクサロイドの声になるはずだ、とか、そんな風に突っ込みを入れることができます。それでも素子は素子の声です。softalkみたいなボットの声でも良かったはずなのにです。

 

演出上、セクサロイドにダウンロードされたのは素子の意識であるということを示すために、田中敦子の声を使ったと考えることができます。実際、前作『ゴースト・イン・ザ・シェル』のオープニングでは、素子が作られていく様が丁寧に描かれています。こうすることによって、素子が素子であると、観客が認識することができます。それが単なる記号を離れて。

では仮に、素子が純粋に意識だけになったとしたら、どうやって、素子とそうでないものの意識を区別するのでしょうか。声も姿形もいくらでも交換可能なものだとしたら、どうやってこれは素子であると判別できるのでしょうか。おそらく、これが素子であるとわかるのは、素子だけになってしまいます。素子が、素子が素子であると外界に証明する手立てはなくなり、素子は素子の中に閉じてしまいます。これは唯我論に近いと思いますが、それはこの映画の設定上、この映画は唯我論的になっていくんだと思います。

 

伊藤計劃さんが、イノセンス一元論に近づくと言っていたと思います。何も区別できない世界、境界のない世界がある、そのような世界への志向が、結果的に一元論的なんだと思います。例えば完全な虚構の世界を志向したとする、とか。そしてそれらの物事の姿形が、我々の目の前に判別できる形であらわれた時、それの取る形態は虚構なんだということです。伊藤さんは押井監督のことを「映画についての映画を撮る」だったか「映画を思考する」だったか「映画で思考する」という感じに評していたと思いますが、これは実に言いえて妙だと思いました。

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、素子が次のようなことを言っています。

 

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なのよ 。他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・

 

素子は虚構である。素子は存在しない。これは虚構なのだ。